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執筆者の写真Yuichi Seshimo

中山道の日本家屋

信州は朝晩は涼しいを通り越して肌寒い日も増えてきました。

我が家でも空を埋め尽くしたトンボが数を減らして、カラマツの針状の葉が風に乗って飛び始めました。

これからは日毎秋の気配を感じる季節になるのだろうと感じます。


先日、中山道沿いに建つ家をお預かりしました。


中山道は古来、東海道と比べて木曽路に代表するような山間部を縫うルートであるため難所続きでした。

東海道の難所は箱根くらいなものでしたが、幕府は大井川などの大きな河川には橋を掛けることを禁じていたため、ひとたび増水すると旅人は水が引くまで足止めをされてしまいます。そうしたこともあり、難所続きでも足止めを食うよりはマシという理由で中山道を往来する旅人は多かったといいます。


その中山道でも佐久あたりは平坦な「平」を往く数少ない地域です。

木曽路、和田峠を超えてきた上方(京都・大坂)からの旅人はひと息つけた地域だったでしょう。

八ヶ岳や蓼科を背に、眼の前には浅間の秀麗な山容に向かって歩くような光景です。


江戸時代末期の天保年間に浮世絵師の歌川広重と渓斎英泉によって「木曽海道六十九次」が描かれました。

この家のあるあたりを担当したのは歌川広重で、浮世絵に描かれた構図と変わらない風景が残っています。



今は中山道は大きな役目を終えて、趣のある街道として親しまれています。

界隈にも宿場であった名残を残す旧家が多くあり、一部は料亭や旅館として再生しています。

この家はそんな地域にあります。




現在の中山道(上方より江戸方を望む)

撮影日は残念ながら浅間は見られませんでした。

空気が澄み渡るこれからの季節は美しい山容が中山道の先に現れます。



さて、中山道の紹介はほどほどに。

この家「中山道の日本家屋」について書いてみようと思います。

170坪余りの土地に建てられた母屋は2階建ての純日本家屋で、間もなく築50年。

延べ床面積は177㎡あります。他に穀物蔵とガレージ、納屋と農機具倉庫という構成で大小5棟です。




母屋は驚くほどしっかりしていいます。

50年の時間は感じません。理由は愛されていた建物、あるいは大切にされていた建物だからです。

抽象的な表現かもしれませんが、人と同じだと考えて頂ければいいと思います。


建てられた50年前といえば、まだまだ建築技術よりも大工さんや職人さんといった建てた人の技量や心意気のようなものが建物の質に大きく影響していた時代です。それから50年近く、そこで暮らしていた人が大切にしてきた結果が今の状態だということがよくわかる建物です。


私は仕事柄、建物の状態を「築年数」で聞かれます。

判断基準としては間違ってはいないと思いますが、私の見解は築年数ではなく「現状」が大事だとお答えします。新しい建物でも、ひどく傷んでしまっているものもあります。反面、間もなく築100年を迎えようとする建物でも、いぶし銀のように美しく輝き、心地よく光や風を感じられる建物もあります。


大事なのは、人がそこで暮らし、風を通し、傷んだらコツコツ修繕する。私自身はそれがその建物が愛されているということだと考えています。人間と同じで忘れ去られ、空き家になった途端に傷みは加速度を増して進むということです。ですから、建物も状態はそれは築年数だけではわからないものなのです。


そう書けば、あなたが預かった建物なのだから良いところを見つけるのは当然だろう。

そう思われるかもしれません。しかし、最後まで読んで頂ければ受け止め方は違ってくるのではないかと思います。



優しく差し込む陽射し。

縁側は廊下でもあり、外と室内の緩衝地帯でもあります。

夏の暑さ、冬の寒さをここで緩和する役目があるのです。京都や古い城下町の座敷にいると外界から切り離されたような静けさを感じるのは、この縁側の存在があるからだという建築家もいる。





縁側から室内に移動する。

夏の陽射しも障子を通すことで色味が涼やかになる。

手前は居間として使われていた8畳間、奥は襖戸を開放した次の間。

この家は、一族の「本家」でした。皆が集まって宴席を開いていたであろう光景が目に浮かびます。





次の間は書院造りの影響を強く受けています。

床の間と天袋、違い棚。中央にある柱は磨き上げられた欅の柱です。

次の間から右手(北側)に奥座敷が続きます。





次の間から奥座敷へ。

一般的にはここが一番格式が高い部屋だと言われる。

大切なお客さまに泊まって頂く部屋で、この家で奥座敷の障子戸のみ透かし細工が施されていたり、エアコンが設置されていたりするあたりにその名残を感じます。





北側の窓から浅間山方面を望む。

撮影日は厚い雲に隠れて裾野しか見られなかったの残念でした。

私の暮らす小諸の家は浅間山に近すぎて外輪見えないのですが、雪を戴き仄かに噴煙をくゆらす浅間山はとても美しいものです。



この家の背景


この「中山道の日本家屋」には、ある事情があります。

それは私たちの業界では「告知事項物件」というもので、いわゆる「事故物件」という背景です。


私はその事実をお預かりする以前から伺っていましたし、撮影のために家の中を隅々まで歩きました。

不思議とネガティブな感覚はありませんでした。それは、そう思い込もうというものなのではありません。

詳細を記すことは控えますが、ここで暮らした人が情愛深く、精一杯生きた結果、たまたま切ない結末を選んだと、ごく自然にそう感じました。


もちろん、そうした事実の受け止め方は人それぞれです。

徹底的に否定をする考え方もあるでしょう。しかし、人間という強くもあり、弱く繊細な存在が一生懸命生きた先に最後に選んだ選択を、私は否定できません。推察することはできても他人にはわかるはずもないからです。


この家には、一生懸命に頑張った形跡が随所に残されていました。

その形跡は紛れもなく人が人を思いやった形跡でした。私が、この家をひと通り撮影したときに呟いた言葉は


「お疲れ様でした。よく頑張りましたね」


最後に


私はある家をお預かりした時のことを思い出しています。


詳しくは「思いを汲み取る」でお読みいただけます。


子供のいない老夫婦が暮らした家で、奥さまを亡くしてからご主人が独りでその家で暮らし、数年後に痴呆の症状が進んだ結果、成年後見人が選任されて施設に入所しました。残された家を精算するために私がお預かりしました。検討された方の中には家の中に残された荷物を「ゴミ」と表現された方もいましたが、介護士をなさっているご夫婦は、残された薬をみて


「このお薬が処方されたということは、ギリギリまでご自宅で頑張ったのですね」


そうおっしゃいました。

今、その家にはそのご夫妻が暮らしています。


「中山道の日本家屋」はそんな方に引き継がれてほしいと願っています。

もちろん、私はあくまでもお預かりした立場なのですが、ポジティブに受け止めてくれる方もいることを経験した身としては、可能なことだと考えています。


たかが仲介人、されど仲介人。

様々な人々の思いを汲み取ることは大事です。



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